【職人探訪】Vol.6「京仏具塗師×淺吉砥石」

堤淺吉漆店が取り扱う、漆、材料、道具について毎回一商品に焦点を当て、実際に使用して頂いている職人さんや作家さんに、使い手目線の評価をしてもらう不定期連載企画。元地域情報紙の記者で、現在は堤淺吉漆店の営業として全国の職人さん、作家さんを回っている私、森住が昔を思い出しながらちょっと記者ぶってお届けする気まぐれコラムです。

VOL.6 淺吉砥石~其の三「ニッチな使い方編」

京漆芸彩色 株式会社倉橋(京都市) Facebook Instagram
■創仏具漆工 伊東泰範(京都市)   Facebook Instagram 

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梅雨入りし、漆がチヂミやすくなった6月中旬のこと。緊急事態宣言も解除され、徐々に職人さん回りも通常に戻すべく、まずは京都から顔を出していこう、と動き出した頃。職人探訪も5回を数え、そろそろ飽きられるころだろうと推測し、次なるテーマに頭を悩ませていた。しかし、結果的に今回のテーマも前回と同じ「淺吉砥石」。ネタが無いのかと突っ込まれると、それも否定は出来ないのだが、どうしても紹介したい使い道に出会ってしまったのだ。

彫漆に金継ぎ。今まではこのニッチな淺吉砥石の使い道としては王道を紹介してきた。しかし今回はニッチの砥石の中でもよりニッチな使い方をしている職人さんを紹介したい。淺吉砥石が出来て、様々な職人さんに販売してきたが、全ての職人さんがどんな使い方をしているのかまでは把握しきれていないのが正直なところ。そこで今回は私自身も想定していなかった使い方をしている2軒の京仏具の塗師を紹介。京仏具の中でもかなり専門性が高く数少ない、それこそニッチな職人さんだ。

「常花」の倉橋。葉脈に淺吉砥石。

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常花(じょうか)とは、仏具の一種で、蓮の花をかたどった造花。「枯れない花」「永遠に咲き続ける花」を意味し、一般に法要などでご仏前の五具足の花立てに飾られるもの。金箔仕上げ、彩色仕上げ、金箔の上に彩色を施す箔彩色仕上げなどがあり、お仏壇から寺院用までサイズも様々だ。

倉橋さんは全国でも珍しい、というよりおそらく唯一の常花を主とする塗師。木地師からあがってきた木地に下地、漆塗りを施すのが塗師としての役割だが、岩絵の具を使った彩色や截金(きりかね)までを自社で一貫する稀有な工房だ。


その木地というのが下の写真。京都の木地師が仕上げるのは、透けて光を通すほど薄く繊細。私も見せてもらったが、他産地の木地とは比べ物にならないほど薄い。が故に蓮の葉脈を彫って表現することは出来ないのだという。もともと木地の厚い他産地品は、厚みがある分木地の段階で既に葉脈が彫ってあるのだ。どちらが良い悪いということは無いが、京都製はシャープで繊細、より本物の蓮の葉に近いとされ評価が高いのは言うまでもない。その京都製の漆塗りほとんどを倉橋さんが手掛けていると言っても過言ではない。

(左)木地の状態(右)半田地を研磨した後

木地が薄いから、繊細に仕上がるわけでもない。そこには塗師・倉橋の受け継がれた匠の技が必要不可欠だ。現在、4代目の喜久雄氏のもと、宏明さん(43)、正明さん(40)の2人の息子さんが技術を継承し、中心となって工房を支えている。

常花の下地は胡粉と膠(ニカワ)を合わせた半田地(※)を使用。2回から3回塗り重ね、平滑にした後、キリを使ってフリーハンドで葉脈を半田地に彫っていく。また、裏側の葉脈の盛り上がりも倉橋さんによって固めに調合された半田地で表現される。本来この盛り上げの仕事は彩色師の役割だったというが今は倉橋さんの仕事に。昔は下地をした後、この盛り上げ作業だけを彩色師に依頼し、また塗師に戻され漆を塗っていた。倉橋さんいわく、彩色師にしたら、本職とは違うこの仕事にあまり良い顔をしてくれなかったという。また依頼する方にしても無理が言えない立場にあり、どうしても後回しになってしまった。

(※)半田地=膠に胡粉または砥の粉を練りこんだ下地

「自分でやらはったら」。

 ある時、先代が彩色師から言われたこの一言がきっかけで塗師倉橋の職人魂に火が付いた。

「こうなったら自分でやるしかない」と。

しかし、やってみたらと言われても決してやり方を教えてくれるわけではない。かといって教えてほしいとも言えないのが職人の世界だ。倉橋さんは、ニカワと胡粉の種類や分量によって盛り上げに適した半田地の調合を試行錯誤し、従来より高く、強い倉橋流の盛り上げ術を確立。よりリアルな葉脈が再現されている。

他産地品の多くは、裏面の葉脈まで盛り上げしていない製品が多いとか。お寺などに設置されれば、裏面はほとんど見られることがないのだ。しかし、倉橋さんがそこにこだわるのは、より本物に近づけるには、見えないところこそリアルに、というモノづくりへの美学。

下地を終えるとようやく漆塗りの工程に。黒の艶消箔下漆を塗り重ねた後、箔押し師に渡り、金箔が施されて完成する。前途のように、箔彩色や岩絵の具による彩色仕上げも倉橋さんが手掛ける。

塗師というと、漆塗りが花形。もちろん倉橋さんも京都が誇る匠の一人だが、仕事や仕上がりを拝見すると、下地がいかに重要かがわかる。昨今、仏壇・仏具業界では、化学塗料であるサフェーサー下地が主流となり、倉橋さんのように昔ながらの半田地で下地する職人さんは少なくなった。サフェーサーは作業性には優れるものの、常花のように繊細な曲線を表現するには下地が厚くなりがちだ。とりわけ、京都の木地師がこだわり抜いて作った極薄の木地にサフェーサーをポッテリ付けては意味が半減する。やはり京都の常花には、倉橋さんの下地と塗り、箔押師による落ち着いた金箔の輝きが必要なのだ。何より、倉橋さんが半田地と漆で手掛けた常花は、何十年、何百年後の修復も可能。実際、工房には先代が塗った常花の修復依頼が入っていた。

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そう、この下地の工程にこそ、淺吉砥石が活躍しているのだ。といっても今回紹介するのは倉橋さんの独特な使い方。キリで彫った葉脈のラインをより綺麗に際立たせる為に、淺吉砥石の#180で仕上げの空砥ぎをするという、これぞまさにニッチな使い方だ。この際、粒度はもう少し細かくても大丈夫。粒度というよりは、淺吉砥石独特の細いスティック状の形が、威力を発揮するのだという。ペーパーや砥石ではどうしてもここまで細いラインを綺麗に研ぐことは至難の業。これまで様々な工夫を凝らしてきたが、淺吉砥石の登場はそれらの課題を一気に解決してくれたという。

「わざわざそこまで研ぐ必要があるのですか」

とちょっとひねくれた質問をしてみると、やはり仕上がりに差が生まれるのだとか。
やっぱり、こだわりが半端ではない。

今や当社WEBサイト人気ナンバー1(漆以外)となった淺吉砥石だが、日本中を探してもこの使い方をしている人は恐らくいないと思う。私も全く想定していなかった使い方だ。真似できない使い方かもしれないが、あえてこのニッチな使用方法を紹介したのは、使い方に決まりは無く、発想次第でいろいろな場面で活躍できるのでは、と思ったから。是非これをヒントに、自分なりの淺吉砥石の使い方を見つけてみてほしい。

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最後に少し紹介したいのが、倉橋兄弟のこと。私も今月で42歳。同年代のこの兄弟の頑張りにいつも刺激を受けている。倉橋工房では、常花の仕事が中心だが、仏像修復や位牌などの仏具、最近では神具の依頼も増えている。また、彩色や截金の技術も活かし、漆塗りと組み合わせながら、オリジナルの作品も手掛けている。

「人と同じものを作っても仕方がないし勝てない」喜久雄氏が口癖のように語るこの言葉通り、2人もまた「自分たちにしか出来ない表現で勝負したい」と試行錯誤を繰り返している。

下の写真はその一部。
興味がある方は直接、倉橋工房へご連絡を。http://www.jouka.net/

仏像の伊東。目蓋に淺吉砥石。

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もう一人、珍しい使い方をしている塗師がいる。仏像塗師の伊東泰範さん(47)。
全国に漆の塗師は数多くおられるが、仏像専門の塗師となると一握りだ。伊東さんも倉橋さん同様、半田地で下地をする数少ない京仏具の伝統工芸士。漆塗りも定評があるが、やはり下地へのこだわりを感じる。

仏像を彫り、形を創り出す仏師。
最後に金箔で加飾する箔押師。
仏像では、この脚光を浴びる2職に対し、「塗師は隙間産業」と伊東さんは語る。

「個性を出してはいけない仕事だからね。。。」

私からすれば、この個性を出さない塗師の仕事こそ、完成した仏像を引き立たせる縁の下の力持ちだ、と声を大にして言いたい。

伊東さんの仕事をわかりやすく説明すると、下の左写真のような仏師が彫った仏像に、下地、漆塗りを施して右写真のようにする仕事。その後、箔押師によって金をまとう。言葉では簡単に聞こえがちだが、とんでもなく難しい仕事なのだ。

写真提供 仏師・宮本我休 
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仏師が彫った仏像は、1体1体表情が違う。柔らかさや鋭さ、力強さ。そこには仏師はもちろん、お寺や檀家の想いが込められている。極端に言えば、彫った仏像は下地、塗りを施してもその表情を変えてはならない。さらに何百年経って修復されても、その表情は同じに再現しないとプロの仕事とは言えないのだ。伊東さんの言う「個性を出してはいけない」というのはまさにそういうこと。今回の取材で、その想像を超える細かなこだわりを目の当たりにした。

伊東さんの工房を訪れると、修復の依頼で数体の仏像が入っていた。もちろん形もサイズも表情も皆違う。倉橋さんのレポートでも説明したが、最近は仏像においてもサフェーサーでの下地が増え、伊東さんのように半田地と漆を駆使する職人が減った。いや、職人が減ったというより、利益や納期を優先した仕事が増え、半田地で新調・修復を依頼する仕事そのものが減ったといった方がいい。

サフェーサーで修復となると、木地にぽってりと下地が付きがちで、受け継がれてきた仏像の表情が変わってしまう。次の修復の時でも、サフェーサーを全て剥ぎ落すことは困難で、結局また塗り重ねることで、どんどん丸っこい身体や表情になってしまうのだ。

その点、半田地はニカワと胡粉の為、数百年経った修復時もお湯に漬ければきれいに木地まで出すことができる。つまり、当時の仏師が想いを込めて彫った仏像が現代にもそのまま受け継がれ、本当の意味での修復が可能となる。

実は京都でも、半田地を常に使っている職人さんはごくわずか。そういう意味でもこの2軒の塗師は実にニッチだ。

予め説明しておくが、サフェーサーを否定しているわけではない。
しかし、伊東さんに話しを聞くと、半田地で下地すべき理由が本当によくわかって勉強になった。



工程は木地に半田地を2~3回刷毛塗りし、漆でいう錆び付けのイメージで砥の粉とニカワを合わせた地で細かな穴埋めをする。そして仕上げの半田地。そこから砥石による水研ぎを経て黒の消箔下漆を塗って箔押。といった流れだ。

この砥石での水研ぎをするに当たり、ニカワは水に弱いのでは?と考えがちだが、逆にその特徴を利用しているのだ。水研ぎすることによって半田地を程よく溶かしながら研磨し、滑らかに仕上げることで、漆を塗った後もしっとりとした綺麗で落ち着いた肌になるという。サフェーサーだと空砥ぎの為、研磨した荒さが残り、漆仕上げしたあとの肌に影響することが多い。

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淺吉砥石はこの水研ぎの工程で使用する。伊東さんは#700の3㎜角を多用している。特に便利なのが、写真のような5寸サイズの仏像など、細かい部分の研磨。例えば、衣と御身の境目や、指先の爪の筋、小鼻の際など。全て砥石の先端に角度を付けて使っている。

一番驚いたのが、下の動画のように目蓋の厚みを研磨しているところ。仏像の表情を変えないためには、目の再現が最も重要。この処理を疎かにすると仕上がった仏像の顔が変わる。ここの研磨にこそ淺吉砥石がその効果を発揮する。ニカワを程よく溶かしながら水研ぎすることで、目じりを下げてやわらかい表情にするとか、切れ長にして鋭くするなどの微調整もこの作業で出来る。下地を施すことで多少厚みを持った目蓋。これを伊東さんの手で、仏師が思い描いた表情に修正する重要な仕事だ。これらの作業は、粒子が荒く、水研ぎ不可のサフェーサーでは絶対に無理。ここに半田地でやる意味があるのだ。

淺吉砥石のメリットをもう一つ。

半田地で下地していても、通常の砥石で水研ぎすると、その研ぎ汁に含まれる不揃いの研磨粒が衣と御身の隅に溜まる。その時にはわからなくても、漆を塗るとその溜まった隅にザラザラ感がでてしまうという。それが、淺吉砥石で研磨するとそのザラザラ感が出ずにキレイに仕上がるのだというのだ。Vol.5の「金継ぎと淺吉砥石」の回で井上絵美子さんも、場面は違うが同様のことを言っていた。

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ちなみに、経机や位牌、彫り物などあらゆる商品において、スッキリしたシャープさが求められる京仏具では、サフェーサー下地の空砥ぎにおいても、実はこの淺吉砥石が使われている。「別にそこは研磨しなくても...」という部分も淺吉砥石で研磨しておくだけで、仕上がった姿がスッキリした印象になるからだ。このひと手間が京都たる由縁か。

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それにしても今回、倉橋さんや伊東さんに詳しく話しを聞いて感じたのは、自分は何も知らないという事。何でもご相談下さいとか偉そうに書いているくせに、毎回毎回、職人探訪の取材をするたびに自分の無知さに気づかされる。そういう意味では、この職人探訪も、勉強の為にも続けるべきか。職人の皆様、次もまた勉強させて下さい。

そろそろマンネリ化しそうなので、次回はまた別のテーマでお目にかかります。

 

筆者/株式会社堤淺吉漆店・森住健吾 Facebook Instagram

プロフィール

神奈川県南足柄市出身。私立桐光学園高等学校にサッカーのスポーツ推薦で入学。在学中、インターハイ3位、全国高校サッカー選手権大会準優勝。日本高校選抜選出。その後、専修大学に進学。体育会サッカー部所属。関東大学サッカーリーグ2部新人賞受賞。卒業後は、仕事とサッカーを両立できる京都の佐川印刷株式会社に就職(サッカーで)。日本フットボールリーグ(JFL)に所属し、選手として活動しながら、人事部にて採用活動に従事。度重なる大けがで2度の手術を経験。サッカー選手を引退し、退職。地元神奈川に戻り、高校時代に取材を受けた株式会社タウンニュース社に就職。茅ヶ崎編集室・厚木編集室にて記者・副編集長を兼務。入社2年後に結婚。相手は遠距離していた京都の漆屋の娘。2児の父となり、そして今、なぜか漆屋で働いている。

asakitichi tsutsumi